人間は差別をしないと生きていけない動物

マツ☆キヨ: 「ヘンな人」で生きる技術 (新潮文庫)」を読んだ。

自分の頭でちゃんと考える

日本人の場合、他の人が何を言っても、自分の意見はこうだということが少ないのも、同じことなんだよね。それはやっぱり、他人に合わせるだけで、自分の頭でちゃんと考えていないということでもあるんだよ。大勢に乗っているときには、間違っても責任を取らないでいいんだもの。

会社員をやっていた頃の私もこうだった。

いわゆる大人として企業に勤め、微々たる納税をし、「これで私も立派な大人でしょ?」というような。

「こんだけ頑張ってるんだから、結婚しなくて子供も産まない私を世間は責めないでくださいよ。」みたいな。

それと反対のことを言うためには、なぜそれが違うと思うのか、自分で根拠と理屈を考えて言わなければならないでしょ。メジャーな意見に賛成するのはとっても楽なわけだよ。「みんながそういうふうに言っていたから、自分はただそれを信じただけだ」と言って責任から逃れられる。そういう傾向がとても強いこの国で、大勢とは違う自分の考えを出すためには、なんとなく斜めにかまえていないといけないよな。

今じゃセミリタイアして完全にマイノリティになってしまったが、今の方が自分の頭で考えている。

もちろん会社員時代も自分の頭で考えていたはずだけど、今ほどゆっくり考える時間も心の余裕もなかった。

自分は特別だという思い

逆差別というのもあって、それはつまり、マイノリティの人の中で、マジョリティを差別する意識が、とても強くなることもあるわけ。少数派には、「自分たちは特別だ」という意識が芽生えてしまうときがよくある。多数派に対しての「あいつらは凡庸で、私たちは非凡」という変な差別意識のようなものが生まれたりもするのよ。

これわかる。

趣味・嗜好の分野だと、私はこういう意識が出やすい。

たとえばマニアックな映画を観て、「この良さがわからない人は通じゃないな。」とか。

若い頃はそんなどうでもいいことで、小さな優越感を感じるような人間でした。

今は生き方そのものがマイノリティになってしまったので、もう他人がどう思おうがどうでもいいじゃないかと思うようになったけど、人間には少なからずこういう差別意識は持っている気がする。

マイノリティの生きる道

人が生きづらいと思うのは、自分が本来こうしたいということと、世間が自分にどんな役割を与えてくれるかということの齟齬が大きいときなんだよね。そうなると、どうしても悩んでしまうわけでしょう。「おまえはこういうふうにすべきだ」ということを自分が受け入れられないと、とても苦しい。

これからの人生は、家族と飼っている猫の最期を看取るまでの暇つぶしだと思って生きている。

平均寿命が80歳を超える時代で、40歳を前にして人生の折り返し地点に近づいた。

私はマイノリティでも、自分の思うように生きていく。