自由をつくる自在に生きる (集英社新書 520C)を読んだ。
森博嗣さんの本を読むのは初めてだ。
タイトルに惹かれて買ったのだけど、読んでは止まり、読んでは止まりが続き、買ったのは夏なのに、読み終わる頃には冬になっていた。
あとがきに、
森博嗣が初めてという人には、多少の違和感と新しさがあるだろう。
とあったが、まさにそれで、最初は脱線のある話についていけず、何となく本を閉じることも多かったが、読み進むにつれだんだん引き込まれた。
そもそも自由って何だろう?
『自分の好きなようにできること』
『誰からの束縛もない状態』
私の乏しい想像力ではこれくらいしか浮かばないのだが、この本には「他者からの支配」「社会からの支配」「身近にある支配」「自分による支配」など、いろんな側面から考察した「自由」が書かれている。
今は自由に何を考えても良い時代である。それでも、本当に自由に考えている人って、そんなにいないのではないか、と僕は感じている。何故かというと、大勢が常識に支配されて、同じような考えしか持っていないからだ。
今の日本人は忙しくて、考える時間や心に余裕を持てない人が多いのかもしれない。
とりあえず大勢の常識に従っていれば考えなくて済むし、責任を取ることもない。
無理に一本の道に拘るのは、自分を縛ることにはかわりない。続けることで得られるものと、別の道へ移ることで得られるものを天秤にかければ良い。そのとき、他者からどう評価されるのかではなく、自分を見つめ、自分の人生における設計として、選択をすべきだろう。あくまでも、最終的には自由なのである。
仕事、恋人、配偶者、友人、住む場所、選ぶのはすべて自分。
(学校に関しては親がお金を出す人がほとんどだろうから、学生の時分で選択権のある人はそんなにいないかもしれない。)
「他人(世間)からどう思われるか」などと考えていたら、自由に生きることはできない。
「自由に生きる」にはそれなりに覚悟がいる。
自由とは、放っておいて成り立つものではなく、常に磨かなければならないものだ。禅僧が座禅して求めるものも、これと同じ「無心」という自由である。
セミリタイアしたばかりの頃は、会社人の意識が抜けなくて、「こうしなければ」といった『べき論』思考だったが、時間が経つにつれて「もっと自由でいいよね」と少しずつ頭の中をゆるくした。
今はだいぶ慣れて自分の思うように生きているが、「自由に生きる」には意識が必要だ。
今日できることをする。なにかできることはないか、といつも探す。そして、無理をせず、時間をかけて少しずつ進む。そうすることが、一番楽なのである。
速攻性があって短時間で人より成功する方法などないのだ。
(飛びぬけた才能の持ち主でない限り。)
40歳を前にして、私は過程を楽しめないものはやらないと決めた。
結果だけを求めるのは疲れる。
(何より飽き性の私には続かない。)
コツコツ楽しめて、それで結果が伴えばラッキーくらいのスタンスで何事も取り組もうと思っている。
非合理な常識よりも、非常識な合理を採る。それが自由への道である。