素顔の南方熊楠

素顔の南方熊楠 (朝日文庫)を読んだ。

この本には、熊楠の娘さんである文枝さんから見た熊楠が書かれており、まさにタイトルの通り「素顔の南方熊楠」がわかる良書であった。

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熊楠の日常

研究はだいたい夕方から始まり、家族が起き出す頃に眠りに就く。
お昼に朝食と昼食を兼ねた食事をとったが、研究に没頭すると食事も睡眠も忘れたそうだ。

熊楠は身体を心配する奥さんに、

小生、何昼夜と休みなしに働くこと、これは小生の若き時からの習性にて、事にかかりては、中止して臥所に入っても少しも眠られず、翌日はなはだ疲労す。されば押しつづけてそのことを果し、さて一日熟睡すればはなはだ快然を覚え候。

と返答している。

食事

質素だったということはなく、当時としては贅沢だったようだ。
好みは肉食でビフテキ、鰻の蒲焼き。
そしてそら豆が不思議なくらい好物だったそうだ。
お昼と兼ねた朝食は食パンにバター、チーズ、お味噌汁。
和食より洋食を好んだ。
健康を考え、庭ではオクラ、トマト、セロリ、パセリなどを育てて食べていた。
刺身は寄生虫を危惧して食べなかった。
お通じのために安藤みかん、ない時は夏みかんを絞ったものを2個、毎食絞らせて飲んでいた。
仕事が忙しくなると2,3日まともに食事をせず、仕事の合間にお味噌汁を吸ってまた書斎に引きこもった。
高い書物を買うときは、「しばらく自分はお味噌汁だけでいい」と奥さんに告げ、奥さんはそれで「高い書物を買うのか」と思ったそうだ。

服装

年中裸で過ごしたかのように思われているが、実際は6月から9月半ばまでだった。
それは多汗症だったことも影響しているそうだ。
洋服は苦手で和服を好んだが、外に出るときはきちんとしていたそう。
おしゃれをする時は徹底的にする。
家の中と外とのけじめははっきりつけていた。
自堕落のように見えても、本当は几帳面であった。

趣味

ご飯を食べながらよく落語の本を読んで笑っていた。

集中力

手紙でも原稿でも、夜中であろうがぶっつけで一気に書いたそうだ。

記憶力

熊楠は子供たちに、

「本を五度読み返すならば代わりに二度筆写せよ、そして毎日必ず日記を怠るな」と教えてくれました。父は幼少の頃からすべて筆写と日記をつけることにより記憶力を養ったようです。「記憶というものは年数が経てばあいまいなものになる、そのとき日記を見れば正しいことがわかる」と申し、日記は終生大切にして誰にも触れさせず、就寝時には必ず枕辺に日記と十手を重ねて置きました。 

と語っている。 

そういえば南方熊楠記念館のHPに、熊楠は博文館の当用日記を使っていたとあった。

博文館新社|当用日記(たて書き)-1月始まり

(今の時代に生きていたら、ブログやってたよね、熊楠さん。) 

奥様の鬱憤

娘の文枝さんは、お母さんは何かと気を遣っていろいろ大変だったと思うと回想している。
ただそのお母さんも、熊楠があまりに飲み過ぎて二日酔いをしてぐずぐずしていると、枕元に座って日頃の鬱憤を立て板に水の如く長い間論じたそうだ。
熊楠は蒲団を頭からかぶって、「もうしません、勘弁勘弁」と一日絶食させられたそうだ(笑)

(なんか熊楠さん可愛いなあ。)

外来の客

いやな客にはゲロを吐いて追い返した熊楠だが、自分は田辺のような田舎にいて、学問上の意見の交換をする人がいなくて何も得ることがなく、みんなに知恵を取られるばかりで淋しいと言っていたそうだ。

(切ない、熊楠さん。)

時間が嫌い

時間というものが嫌い、時計が一切嫌い。
生命が縮まるように思うとのことで、正月はおめでとうとは言わなかったそうだ。
一年過ぎて何がめでたいのだ、ということだそうだ(笑)

一期一会

柳田國男宛ての手紙に、「私の覗いている粘菌は一期一会といいますか、時々刻々に変化していくものだから時間が惜しい」と語っている。

渡米を決めた理由

古代から日本国内で人種の淘汰が繰り返され、滅亡したものも少なくない。
今後は同様のことが国際間で行われるだろう。
それを防ぐには日本人が欧米に入って、その土地に足を踏み入れ物を見て、人情を探り、習うべきものは習うという気概を持たねばならないとの意からだったそうだ。

僧になろうと思っていた

京都に上って真言宗の僧になろうとしていた。

海外へまた行きたかった

日本に戻ってからもまた海外で勉強したかったようだが、外国に日本のお金を落としたくないと諦めている。

高野山真言宗管長である土宜法竜に宛てた手紙には、

小生再航せんと欲するも、今日ごとき為替相場の貴きにわが国の金銭を考へなく外国へ落とすこと面白からず。

とある。

自分の死後

生前、自分の死後100年か200年後に誰かが書庫の扉を開いてノートや標本類を点検し、紀州の片隅でこんなことをしていた人がいたのか、と気づいてくれたらそれで満足だと、家人に洩らしていたそうだ。

(とても謙虚な熊楠さん。)

 

熊楠の伝記には、熊楠が死ぬ直前「 熊弥、熊弥(熊楠の長男、文枝さんのお兄さん。統合失調症を患い、熊楠とは離れた場所で療養していた)」「野口、野口(熊弥の後見人)」の名を叫んだと書かれているが、実はその前に「文枝、文枝」とも言いかけていたそう。

それは熊楠の研究会の人が、文枝さんの当時の日記に書かれていたのを後に見つけたそうだ。

熊楠が自分の名前を呼んだことを伏せたのは、ずっと不遇な時を過ごした兄に、父の最期の歴史に名前が刻まれることを熟知してそうしたのではないかとあった。

この文章を読んだ時、私は涙がこぼれた。

なんて謙虚で優しい方。

南方文枝さんを偲ぶ−松居

人見知りの人嫌い、でも淋しがりやの熊楠は、家族や研究仲間、友人、地元の人に愛された偉大な天才だった。

文明開化が始まって時代が大きく変わろうとしていた明治の時に、こういう気概のある人がいてくれたおかげで今の日本があると、歴史の本を読むたび私は思う。

明治、大正、昭和の人たちの頑張りが、今の安全で平和な日本をつくってくれた。

私はその方たちに、深い感謝と尊敬の念を抱かずにはいられない。