スウェーデンのダグニーさんが100歳でパソコンを買ってブログを始めたという番組を見て以来、ダグニーさんのブログをたまに覗いている。
100歳から始まる人生 | BS世界のドキュメンタリー | NHK BS1
私はスウェーデン語はさっぱりわからないので、ダグニーさんが元気か確認しにいく感じだけど、この番組の中でスタッフからブログをやっている理由を聞かれたダグニーさんは「楽しいから」と答えている。
これを見て、私も将来こんな感じで死ぬまでブログをやりたいな~と思った。
私は読んだ本の感想や自分が思ったことや調べたことを整理するため、すなわち自分のためにこのブログを書いている。
もちろんアクセスがあったに越したことはないけど、どちらかというとアクセス数より共感してもらう人がいたり、誰かの役に立った方が嬉しい。
ブログは「こんなことをした」「こんなことを考えた」という記録を残すために書いていますが、一方で考えを整理するために書いているという面もある。頭の中のゴチャゴチャしたものを、ある程度人にも見せられるように整理することで、自分もよく理解できるんです。「他人が見るかもしれない」という視点があったほうが、ちゃんとまとめる気になりますから。外向きと内向きが“半々”くらいの加減が、ちょうどいいなあと思っています。(中略)だから「ある程度は力を入れるけど、そんなに読まれなくてもいいや」くらいの気持ちでやっています。たとえあまり読まれなくても、考えが整理できたのであれば、書けた時点で自分のためにはなっていますし。
私のブログのスタンスは、phaさんのスタンスに近い。
このブログは自分の考えたことをアウトプットすることがメインだけど、それとは別に1日何があったか淡々と書くブログも始めた。
それは以前読んだ南方熊楠さんに関する本に、「記憶というものは年数が経てばあいまいなものになる、そのとき日記を見れば正しいことがわかる」と書いてあったから。
そちらのブログは文脈も文法もまったく考えない、その日あったこと、思い浮かんだことをぽんぽん書く日記で、アクセスもほとんどないので気楽に書いている。
紙媒体の記録ではないので、万が一私が死んでも、残された家族は存在を知る由もない。(それがいい。)
で、たまたまナインティナインの岡村さんの『人間の記憶はアテにならない』という記事を読んで、ブログは自分のために続けようと思った。
岡村さんは当時を振り返り「何でそうなったかっていうと、東京というところがスゴイ冷たいところやと。コンクリートジャングルで誰も味方がいないって思い込んでたんですね」「優しくしてもらってることを全部ナシにしてたんです。優しくしてもらっても今だけや!俺らが一時期のブームで落ちて言ったら離れていくんやろ!じゃあ近寄ってくるなよ!っていうのの中に水道橋博士を入れてしまっていうっていう、その申し訳ない気持ちが…すいません!」と自分の記憶の曖昧さに反省をしていました。恐らく、家電を入れてもらって夜色々と語り明かした時に、ANNに対する思いはお話したのでしょうが、”殴り込みにあった”というのは岡村さんの完全なる勘違い。ここにきて博士と話しができて良かったですね。ちなみに写真はいまの岡村さんの記憶を支えているノート。色々とメモ書きをするようになって数年が経ちます。
人間の思い込みって、こわい。
人間の記憶って、アテにならない。