【書評】ダイエット依存症

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森さんのツイッターを読んで興味が湧いたので、水島広子さんのダイエット依存症 (こころライブラリー)を読んでみた。

水島さんの本は、『それでいい』以来。

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依存症の構造がよくわかる本だった。

やせさえすれば

ダイエットに依存してしまうのは、本来「自信がない」問題をやせさえすれば自信がつくだろうという思い込みから始まるのだそう。

「自信がない」ことから目をそらしてダイエットに依存→自信をつける機会が奪われる→ますます自信をなくす、という負のループの構造。

「やせさえすれば……」と考えることは、現在を直視しないということです。目の前にいろいろな問題があっても、「やせさえすれば……」と思うと、視野は現在から「幻想の未来」へと移ってしまい、結果として現状に向き合わなくなるのです。ここはまさにアルコール依存症と同じ「回避」「否認」の構造になります。困ったことがあったときに、向き合って解決するのではなくとりあえず飲む、というのと同じように、困ったことがあったときに、向き合って解決するのではなく「やせさえすれば」とダイエットに向かう、ということなのです。

(引用 ダイエット依存症 (こころライブラリー))

「やせさえすれば」という考え方は視野が極端に狭くなっていて、「やせていない私」「私のことを太っていると思っている他人」という要素だけにそぎ落とされてしまうと書かれているのだけど、自分のことを「やせている」「太っている」だけでしか見れなくなるのは辛いなぁ。

時代の空気

時代の「空気」が「やせた身体」を求めている今、体型についてとやかく言われたことがない人でも、体型を気にするようになるのは理解できます。直接言われたわけでもなくても、メディアや日常生活の中でやせた人たちはもてはやされていますし、それが間接的に自分の体型への評価になるからです。ダイエット依存症の人の中には、他人が太ったと言われたことから「危険」を感じ取る人もいます。他の人と一緒に「あの人太ったよね」「どうしてダイエットしないんだろうね」などと笑いながら、「自分も太ったらこういうふうに言われるのだ」と不安になるのです。

 (引用 ダイエット依存症 (こころライブラリー))

自分の思春期にSNSがなくてホント良かった!

ただでさえ自意識ライジングな思春期にインスタなんてあったら疲れるわ~。

自分は他人から受け入れられる人間

もともと「自分は他人から受け入れられる人間だ」という感覚を強く持っている人が他人から批判されたとしても、自分の問題としてそのまま吸収してしまわずに、現実的に修正可能な部分だけを取り入れるか、単に「相手の感じ方」として位置づけることができるでしょう。一方、そもそも自分はだめな人間だと思っていれば、その批判は鋭く刺さってしまうでしょう。

 (引用 ダイエット依存症 (こころライブラリー)) 

この本にはダイエット依存症になった人たちの例えがいくつも書かれているのだけど、「自信がない」きっかけを子供に与えているのはたいてい親が多い。

しかしその親自身も、また親によって「自信がない問題」を与えられていて、まるで負の連鎖。

摂食障害になる背景にはいろいろな問題があるのですが、「形」へのとらわれに関して特に注目しておきたいのは、「ありのままの姿で自分を肯定された経験が乏しい」ということです。摂食障害になる人は「いい子」が多いと言われていますが、それは、本人が「いい子」(周りに合わせる子、自己主張しない子)になりやすいタイプの子であったというだけでなく、「いい子」でいなければならない事情もあった、ということがほとんどです。

身近なところに批判的な人がいると、のびのびと、ありのままの自分を表現することができない環境で生活することになります。これは友人によるいじめや親からの虐待という場合もありますが、親が常に人の目を意識してこまごまと批判してくるというような場合も多いのです。

(引用 ダイエット依存症 (こころライブラリー)) 

「ありのままの自分を受け入れてもらえる」「そのままでいい」という安心感を与えてあげる大人が一人でもいれば、依存症になることはなかったんだろうに。

コントロール感覚

「コントロール感覚」というのは、「自分は事態に対処できている」という感覚のことですが、私たちの精神的な健康を支える基本的な感覚です。

(引用 ダイエット依存症 (こころライブラリー)) 

コントロール感覚を持てていると、ダイエットに関しても「健康なこだわり」として行なうことができるけど、コントロール感覚が持てないと「苦しいとらわれ」となってしまう。

コントロール感覚があるということは主体性があるということで、外見は自分が何かを達成するための手段となる。

だけど主体性がなくなってしまうと行為にしがみつき、外見によって自分がどう行動するかが決まってしまうというとらわれに襲われてしまう。

自分の中に浮かんでくる強迫観念そのものは、コントロールできないことが多いものです。もともと強迫観念というのはそういう性質のものだからです。でも、そこで「強迫観念が浮かんでしまった」「どうすれば浮かばなくなるのだろう」ということにとらわれて振り回されるのではなく、「強迫観念は浮かんだけれども、大丈夫」と思えることが、「コントロール感覚」です。

 (引用 ダイエット依存症 (こころライブラリー)) 

自己肯定感

どんな人でも、生活上の変化に応じて自分を肯定する気持ちが一時的に揺らぐことはあるものですが、その土台に本質的な肯定感があれば、コントロール感覚を保つことができます。「本質的な肯定感」とは、一般に「自尊心」と呼ばれるものに当たりますが、自分という存在を肯定する感覚のことで、「自己肯定感」「自尊感情」などとも呼ばれます。自分は生まれてきてよかった存在なのだ、自分は生きていく価値があるのだ、という自然な感覚のことです。

(引用 ダイエット依存症 (こころライブラリー)) 

自尊心を養っていく上で不可欠なのが、「無条件の肯定的関心」を向けられることなのだそう。

「自分が何をしても親は味方でいてくれる」などという絶対的な安心感はとても大事だそうで、「いい子」という条件がなければ親が味方しないような環境で育った子どもは、自分についての不確かさを「形」でカバーしようとして、とらわれていくのだそう。

ちなみに「形」とは身体に関するものだけでなく、肩書、仕事の業績、経済力、成績など様々なものがあるそう。

罪悪感は百害あって一利なし

一般に、罪悪感は百害あって一利なしです。罪悪感ほど自己中心的なものはなく、罪悪感にとらわれている間、私たちは自分のことしか考えていないものです。

(引用 ダイエット依存症 (こころライブラリー)) 

罪悪感って自己中心的なのか。

なるほど。

そんな風に考えたことがなかった。

愛しい身体

 「ダイエット依存症」にはまりこんでいくと、そんな身体の複雑さには目が向かなくなり、極端になると、身体を「食べて出す。出せない分はたまる」というだけの、脂肪貯蔵機能のついた袋のように思い込んでしまうものです。ですから、食べる量を減らせないのなら、たまる前に吐いてしまえばよいし、それでもたまってしまった脂肪は手術でとってしまえばよい、というような単純な発想に陥ります。実際の身体では、食べてから出すまでの間に複雑なプロセスがあり、その一つひとつが生物としての人間の命を支えているのですが、そういう意識がなくなってしまうのです。それでも、そんな滅茶苦茶な扱いをしても、身体は耐えてくれるのが普通です。低体重になれば生理が止まり、基礎代謝を下げて、死なないように省エネモードにシフトします。

(引用 ダイエット依存症 (こころライブラリー)) 

最後の二文は読みながら少しウルっとした。

何て健気なんだ、人間の身体。

身体にいいもの食べて、運動して、きちんと寝て、死ぬまで労わろうこの身体。

 

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