仏教思想のゼロポイント
仏教思想のゼロポイント読了したので備忘録としてまとめておく。
まずは『最高の体調』の死の章の簡単まとめ
現代人はいつ来るかわからない遠い未来の死に対して不安を感じる。
(これまで築いた富、地位、名誉、愛する者との別れに対する畏れ等々)
その不安に対して原始仏教が示した解決策が
全ての欲望はフィクションだと気づきなさい
欲望は社会のガソリンとなると共に、果てしない不満も生む。
全ての欲望は無
人類の欲望は遺伝子の生存プログラムに組み込まれたもので、周囲の環境に応じて常に変わり続ける。
全ては外部の反応に対する刺激で、そこから生まれた欲望が何か特定の形や永遠の構造を持つことはない。
⇒仏教でいう【無常感】
自分という存在すらフィクション
私たち人類は遺伝子を残すために生まれた巨大なシステムの一部でしかない。
自分とはあくまで環境のやり取りで生じる自然現象の一つ。
何も変化しない絶対的な自己など存在しない。
ありもしない自己に執着するから不安が生まれる。
人間の内側にある諸々の欲望は常住に存在しているのではない。
束縛されているものを捨て去ったなら死の領域は迫ってこないし、さらに次の生存の迷いを受けることもない。
⇒仏教でいう【悟り】
基礎知識
最大の欲望⇒自己の生存本能
四諦
ブッダさんが悟った四つの真理。
- 苦諦
- 集諦
- 減諦
- 道諦
⇒苦しみが起こる原因<集>
- 肉体的な快楽を求める欲望
- 生きたいという欲望
- 逆に生きていることが辛くて死んでしまいたいという欲望
⇒渇愛(欲望)
自他への渇愛(欲望、執着)を滅すれば、自然に苦は消滅し、安らかな境地(涅槃)に到達できる。
四苦八苦
- この世に生まれた苦しみ
- 老いる苦しみ
- 病気になる苦しみ
- 死ぬ苦しみ
- 憎いもの、怨むものに出会う苦しみ
- 愛する人と別れる苦しみ
- 欲しいものが手に入らない苦しみ
- 心と体の欲望が満たされない苦しみ
八正道
減諦に至るまでに具体的な八つの修行法
- 正しい認識
- 正しい判断
- 正しい言葉
- 正しい行ない
- 正しい生活
- 正しい精進
- 正しい観察
- 正しい瞑想
異性とは目も合わせないニート=出家者
ゴータマ・ブッダの仏教は、私たち現代日本人が通常の意識において考えるような「人間として正しく生きる道」を説くものではなく、むしろそのような観念の前提となっている、「人間」とか「正しい」とかいう物語を破壊してしまう作用をもつものなのである。
ブッダさんの教えは、現代日本人の感覚からすれば世の流れに逆らった非人間的生活へ導くもので、出家者には「労働の否定」「生殖の否定」が求められる。
(渇愛(欲望)が生まれやすい環境から徹底的に離れなさいということか)
苦と輪廻転生のニュアンス
現代日本人の私が想像していた「苦」と「輪廻転生」が、原始仏教の立場の捉え方と違っていたので簡単にまとめておく。
ブッダさんの言う「苦」とは、「不満足」というニュアンス。
辛い、苦しい、のような感じではない。
「輪廻転生」と言うと、「肉体が滅んでも魂(心)だけは残ってまた別の存在として生まれ変わる!」のように考えがちだが、仏教の立場からすると違うらしい。
「輪廻」というのは「自分」が死んで転生の瞬間にだけ起きる神秘現象というわけではなく、「現象の継起のプロセス」として生起し続けているもの。
いま、この瞬間に生じ続けている「現実」のこと。
ブッダさんの仏教の本筋は、物事を「ありのままに知る」ことによって、苦(不満足)なる現象の継起(輪廻)から解脱することにある。
無我だからこそ輪廻する
ブッダさんの言う「無我」の我は、「常一主宰」のことを意味する。
「常一主宰」とは、常住であり、単一であり、主にコントロールしている機能を有するものという意味で、ブッダさんの言う「無我」とは、永遠に変わらない絶対的な自己などないということ。
世界において認知される諸現象は、主観的なものであれ客観的なものであれ、その全てが原因・条件によって形成された一時的なもの、即ち縁性のものであり、無常。無常の現象の世界の中のどこかに、固定的・実体的な我が存在していると思い込み、その虚構の実体我に執着して、苦の原因を作ることを否定した。
無我なるものは、「それは私のものではなく、それは私ではなく、それは私の我(本体・実体)ではない」=「己の所有物でもないし、己自身でもないし、己の本体ではない(己の支配下にはない)」。
私の身体は勝手に病むし、勝手に老いる。
ありのままに正しき智慧をもって見なさいよ~ということ。
脱善悪であって反善悪ではない
どのような人格が「善い」「悪い」の判断はそこにいる人々が共有している物語によって変わる。
そのような無常の物語に自己を最適化しようとし続けて、終わりのない不満足のサイクルに絡めとられることから解脱しようというのがブッダさんの仏教の目標。
ブッダさんの仏教の本質は、世俗的な意味での「善悪」からは距離をとることだが、それは決して「反善悪」というわけではなく、世俗的な倫理を理解した上でそれを超越した境地を目指すところにある。
意味も無意味もない
「無意味だと」己や他者に語りかざるを得ないのは、心の底のどこかに「意味」への甘い憧憬が残存しているから。ブッダが教えたのは、「無意味だ」と口にしてまで新たな「意味」を生成し続けずにはいられない、その衝動、その根源的な欲望を深く見つめ、それを滅尽させること。そうしてはじめて物語の外、「世界の終わり」に到達できる。
悟後のブッダさんは最初は説法するつもりはなかったようだが(万人に理解されないとわかっていたため)、身内に関してはかなり無理やり出家させ、父に抗議されて参ったという話はちょっとおもしろかったw
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